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その1:小島武夫との出逢い
私が大学生だった頃、プロ麻雀誌に"小島武夫が事務所を開いて、そこに若い人が出入りしている"という記事が載っていたのです。
前年行なわれた第1期阿佐田哲也杯に、名古屋で麻雀を教えたHがシード選手として参加していました。あいつがシード選手になれるぐらいなら、自分だって…と、第2期阿佐田杯に出場、予選・準々決勝と勝ちアガッたものの、準決勝で力つきて敗退。 そのときに、小島さんと多少ことばもかわしていたので(いま思えばただのファン
にたいする気遣いだったのだろう)麻雀の世界に興味もあり、いったいどんなことをしているんだろう、と電話をして遊びにいってみました。
小島 "なんだ、おまえさん、プロになりたいのかい"
R "いや、えー、まあ…できれば…"
てなやりとりがあり、もしかしたら自分でも麻雀の世界でやっていけるのかな、と思ってしまったのです。
事務所であれこれ話したあと、じゃあちょっと遊びにということになったのですが、そのまえに打ちにいこうとなりました。
べつに私の打ちスジをみたいということではなく、遊びにいく軍資金がないので……ということです。
行ったところが新宿二幸(現スタジオアルタ)裏の麻雀荘。1、2のダブルのブー麻雀(詳しく知りたい人は直接きいてください、とにかく結構大きいレートではあります)です。 学生時代我が家に居候していた奴が新宿のブー麻雀荘でメンバーをしていたことがありブーを打ったことはありましたが……。
ブー麻雀と言うのは、持ち点が満貫分でスタートし、誰かが満貫分浮くか沈むかすると一回が終わりと言う超スプリント麻雀です。つまり、東1局に満貫をツモるとゲームセットになるわけです。
1,2のダブルと言うレートは、チンマイ(一人沈み)2コロ(二人沈み)の場合沈んだ人が1000の支払、サンコロ・マルエイ(三人沈み)は2000オール、で6000の収入になります。連勝だとそれが倍になります。これが20年ぐらい前の話ですから…。ウーンでかい。
当時のバラ打ち(フリーの店をこう呼んでいました)のレートはピンのワンツーが主流。今から考えると大きいようですが、でもこれが最低レベルだったのです。(学生もこのレートで平気?で打っていました)原点トップでプラス4000ぐらい、そこから場代(当時は各自払いでなくトップ払い)を払うわけですから、半荘打ってやっとトップをとるよりも、東1局に満貫をツモって一発マルエイ(サンコロ)に仕上げるほうが断然大きいのです。
以前我が家に居候をしていた友人が、新宿のブー雀荘でメンバーをしていたので、それまでにもブー麻雀は結構打っていました。しかし、レートが…
今なら、レートがいくらでも同じに打てると言えるけど、その当時はまだ同じに打てると言いきれるだけの経験もなく、かなり緊張気味に卓に着きました。
そのころ小島御大は、いつもの調子で(そのころはまだしらなかったが)ガハハと高笑いしながら打っていました。
結果は…
数時間のブーでマルエイ1回分程度のプラス、御大はもう少し勝っていたようです。
じゃあそろそろ飲みにいこうか、小島さんが声をかけてきました。しかし、当時の私は健全なかたぎのサラリーマン。翌日の仕事の事を考えるともう帰らなくてはなりません。
涙を飲んで、小島さんに告げると、おやそうかい、とちょっと意外そうでしたが、それなら車代をやろう、ほとんど初対面にひとしい若い奴にまで車代を出してやろうとするとは、実にここが 小島武夫 のいいところでもあり最大の欠点でもあるのです。まあ、このことを実感したのはもうしばらくたってからの事ですが。
この日から小島事務所にときどき顔を出すようになり、そこで知り合った高見沢治幸、森山茂和氏の誘いで久保谷寛氏主宰の渋谷若獅子戦にも参加する事になりました。
たしか私が出場したのは第3期からでしたが、前記2名のほかに久保谷寛、井出洋介、馬場裕一などが在籍していました。 |